ここでは,物理への応用を念頭に,ベクトルという概念と,それを用いた演算の基礎を解説する。 まずベクトルとは何かという説明をしたのち,ベクトルの和,内積,外積について説明し,最後にベクトル場という概念について簡単に触れる。
電荷や質量のように,1つの値によって指定される量をスカラー(scalar)と呼ぶのに対し,大きさと向きを持つ量をベクトル(vector)という。 これを視覚的にイメージするために,矢印を用いて表現されるのが一般的である。 数学的にはもっと漠然とした定義があるし,物理でもそうした理解が必要になるときがあるが,学習を始めてから当面は,ベクトルをこのように理解しておいて問題ない(数学的な定義については『ベクトル空間』を参照)。 ある量がベクトルであることを明示するときは,太字で$\bm{A}$としたり,あるいは頭に矢印をつけて$\vec{A}$としたりする。
例えば2次元の平面上の位置は,原点から伸びるベクトル$\bm{x}$で指定することができる。 平面上の点を指定するには2つの値が必要になり,どのような値の組で指定するかには任意性があるが,一番単純なのは2本の直交する直線軸を取り,原点からそれぞれの軸に沿ってどれだけ移動すればその点に至るかで指定することだ。 各軸に沿った1単位分の長さのベクトルを標準基底ベクトル(standard unit vector)と呼び
と表すことにする。 するとベクトル$\bm{x}$は,$1$軸上の座標と$2$軸上の座標を用いて
と表せる。 これを位置ベクトル(position vector)という(図1参照)。 このとき,座標$(x_1,x_2)$をベクトル$\bm{x}$の成分(components)と呼び
あるいは
と表す。
図1:標準基底ベクトルと位置ベクトル
三平方の定理より,ベクトル$\bm{x}$の長さは
と求められる。 (\ref{r=x+y})からもわかるように,2つのベクトルの和$\bm{A}+\bm{B}$は,$\bm{A}$の頭に$\bm{B}$のお尻を付けたとき,$\bm{A}$のお尻から$\bm{B}$の頭をつなぐベクトルに等しくなる(図2左)。 同様に,$\bm{A}-\bm{B}$は$\bm{B}$の符号を変え,図2右のように考えられる。
図2:ベクトルの和
3次元への拡張はそのままで,3軸目を加えると(\ref{r=x+y}),(\ref{rcomp})および(\ref{rnorm})に対応する表現は,それぞれ
および
となる。
3次元空間内の任意のベクトル$\bm{A}$は,その成分を$(A_1, A_2, A_3)$とすれば,位置ベクトル同様に標準基底を用いて
と表せる。 和の記号を用いれば
とも表せる。この標準基底ベクトルのように,与えられた空間内の任意のベクトルを,それらに係数をかけたものの和で表せるようなベクトルの組を,基底ベクトル(basis vectors)という。
2つのベクトル$\bm{A}$と$\bm{B}$がなす角を$\theta$とすると内積(inner product)と呼ばれる以下の演算が定義できる。
この演算の結果はベクトルではなくスカラーである。 それゆえ,内積のことをスカラー積(scalar product)ともいう。 ベクトルが挟む「$\cdot$」は,内積であることを示す記号であり,省略すると別の量を表してしまうことになるため注意しよう。この記号のため,内積をドット積(dot product)ということもある。
$\cos{\pi/2}=0$より,2つのベクトルのなす角が$\pi/2$であるとき内積はゼロになる(三角関数の復習はコチラから)。 このとき,それらのベクトルは互いに直交するという。 それゆえ,3次元の標準基底ベクトルの組$\bm{e}_i \ (i=1,2,3)$の内積は$i=j$のとき$1$で,それ以外は$0$となる。 このことは,Kroneckerのデルタと呼ばれる記号$\delta_{ij}$を用いて表すと便利である。 $\delta_{ij}$は$i=j$のとき$1$で,それ以外は$0$となる関数として定義される。 すなわち
である。 この関係を用いると,ベクトル$\bm{A}$と$\bm{B}$の内積はそれぞれの成分を用いて
と表すことができる。
単位時間に単位面積当たりのエネルギーを運ぶ電磁波のエネルギーの流れは,Poyntingベクトルと呼ばれるベクトル$\bm{S}$で表される。 ある面に垂直な方向を指す単位ベクトルを$\bm{n}$とすると,$\bm{S}$と$\bm{n}$がなす角が$\theta$のとき,その面が単位時間に受け取る単位面積当たりの電磁波のエネルギーは
と表される。 つまり,受け取るエネルギーは,エネルギーの流れが面に垂直に入射したときが最も大きく,面に平行なときは$0$になる(図3)。
図3:Poyntingベクトルの入射
内積とは別のベクトル演算として,外積(outer product)という概念も覚えておかないといけない。 外積は,標準基底を用いると
で定義される(図4参照)。 ここで現れる「$\times$」は外積であることを表しており,単なる数同士の掛け算に使う記号とは意味が異なる。 このクロス記号ゆえ,外積のことをクロス積(cross product)ということもある。 この定義からわかるように,内積が2つのベクトルからスカラーを与える操作なのに対し,外積は2つのベクトルから別のベクトルを与える。 そのためベクトル積(vector product)という呼び方もされる。 外積の結果得られるベクトルは,1つ目のベクトルの向きから2つ目のベクトルの向きに右手の先を曲げたときに,親指が向く方向を指す。 よって,演算の順序を入れ替えたとき,計算結果の符号は反転する:
このことは,Levi-Civita記号$\epsilon_{ijk}$を導入すると簡潔に表せる。 これは,$(i,j,k)$が$(1,2,3)$か,それらを偶数回入れ替えた$(2,3,1)$,$(3,1,2)$のときは$1$で,奇数回入れ替えた$(3,2,1)$,$(2,1,3)$あるいは$(1,3,2)$のときは$-1$,それ以外のときはすべて$0$になる。 すなわち
である。 これを使うと,標準基底の外積は
と表せる。
図4:標準基底の外積$\bm{e}_1\times\bm{e}_2=\bm{e}_3$のイメージ
任意のベクトルは(\ref{Aexpand})のように,標準基底を用いて表せるため,ベクトル$\bm{A}$と$\bm{B}$の外積は
と計算できる。 成分を抜き出すと
である。
$\bm{A}$,$\bm{B}$の成す角が$\theta$であるとき,$\bm{A}\times \bm{B}$の絶対値の2乗を計算すると
となる。 すなわち
が成り立つ。
外積を使った例も挙げておこう。磁場$\bm{B}$中を速度$\bm{v}$で運動する荷電粒子が受ける力は
で与えられる。 ここで$q$は荷電粒子の持つ電荷である。 つまり,速度と磁場の大きさが同じであるなら,物体が磁場と直交する方向に運動しているとき力は最大で,平行に運動しているときはゼロになる。
電磁波は,電場$\bm{E}$と$\bm{B}$をそれぞれ互いに直交する方向に振動させながら伝播する波である。 その伝播方向は,外積$\bm{E}\times \bm{B}$が向く方向であり,先ほども取り上げたPoyntingベクトルは
で与えられる。 $\mu_0$は真空中の透磁率と呼ばれる定数である。
最後に1つ重要な概念について触りだけ説明しておく。 空間の各点で値が与えられる量を,場(field)という。 例えば,温度$T$や圧力$p$が空間の各点で定義できるとき,それらを空間座標の関数として表した$T(\bm{x})$や$p(\bm{x})$も場である。 これらはスカラー量であるため,スカラー場(scalar field)と呼ばれる。 これに対し,空間各点で,その点を始点とするベクトル量が与えられるとき,それをベクトル場(vector field)という。 先にも出てきた電場$\bm{E}(\bm{x})$や磁場$\bm{B}(\bm{x})$もその例である。 位置ベクトルは原点を始点とするベクトルであったのに対し,ベクトル場$\bm{V}(\bm{x})$は点$\bm{x}$を始点とするベクトルであることに改めて注意しておこう。